いちいち、音楽を考える。

音楽はフィーリングも大事だけど、いちいち考えてみたくなるんです。

言葉はもっと、自由なものではなかったか。

こんばんは。キタダハルキです。

もう8月も23日かぁ…と、過ぎ行く夏を感じているんですが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。

 

今日はお題の通りです。個人的に気になっていることです。

言葉はもっと、自由なものではなかったか。

ということで、お話ししてみたいと思います。

■またも起こってしまった”言葉狩り”。

先日、なにとは言いませんが…ミュージシャンのとある発言が話題になっていましたね。

結論から言えば…「えっ?」という感じ。言葉狩りとしか言いようがない*1というか。

もちろん、思うところは自由。意見表明だって自由。なんだけど、それによって起こることまで受け止められるのかな?と疑問を抱かざるを得なかったんですよね。

案の定というか、その言葉を盾にして同調圧をかけている人間を山ほど観測したし、それこそそういう人たちが考えることすら放棄しているあの漢字二文字へ結びつくような考え方じゃないのか?と思ってしまったんですよね。

■意見が変わるのは人間として、あることだけど…

また、時を少し遡りますが…某ミュージシャンが過去に出したアルバムのタイトルを変更する、という事象もありましたね。

あれだって「はい?」って思いましたよ。自分の作品に対して思いがあってタイトルつけたんじゃなかったんか?と。もちろん、意見が変わるのは人間としてあることです。実際、そのことは自己判断として表明されていたし汲みたい気持ちもあります。

だけど、もしも、あの言葉尻だけとってギャーギャー言ってくる人間がいて、そこに合わせて屈してしまったという側面があったのならば、それはもはや検閲に遭っているのと何が違うんや?と。

■ただただ”不快側”に右習えするのって、それでいいの?

言葉の捉え方は自由だし、気分の良い悪いは千差万別。不快に思う人もいれば、なんとも思わない人、なんなら同じ言葉でも気分がいいって人もいるわけです。

それなのに、ただただ(おそらくはごく少数オブ少数の)不快側に右習えして、なんとも思わない人・気分よく使っている人に無駄な罪悪感を植え付けて、あくまでこれも千差万別のはずの「正義感」のようなもので自分の価値観だけで他人を裁き、コントロールするような行為って、ほんまにそれでいいの?

これこそ、世の中を息苦しくするキャンセルカルチャーそのものではないか?と私は思ってしまうのです。

それでは、今日も最後までお読みいただきありがとうございました。

もし気に入っていただけましたら、もう一記事、読んでいただけると嬉しいです。

 

↓前回の当カテゴリの記事はこちら。CD・iPodが中心の私が、ついに新作探求の限界に直面しサブスクにトライ。いろいろと弱点が指摘されているAmazon Musicを使ってみた率直な話をしています。

musictherapy.hateblo.jp

 

*1:付け加えると、7年も前の他人のポストを掘り起こしての同調発言というところもNG。相手方、考え方変わってるかもしれないじゃないですか。